2018年11月19日
この秋の取材から
幼い頃、「人は亡くなって50年経ったら、もうご先祖様なんだよ」と
伯父がよく言っていましたが、この秋の湯浅町での取材では、
それを強く感じました。
明治に入って間もない時期に亡くなった江戸時代の人物には
当然ながら誰も会ったことがなく、
彼の存在を身近に感じられる人はもういませんでした。
しかし、彼が手がけた石碑や橋は、県や市の指定文化財となって今も残っていて、地元の人なら、知らない人はいないほど有名なのです。
彼の名は石屋忠兵衛。
江戸時代後期、湯浅で石工をしていた忠兵衛は、
日本遺産「絶景の宝庫 和歌の浦」を構成する文化財のひとつ、
不老橋の勾欄部分(和歌山市)、
また、同じく日本遺産「醤油醸造の発祥の地 紀州湯浅」の地にある
「大地震津なみ心え之記碑」を手がけたとされています。
彼に関する資料はほとんど無く、なぜ、和歌山の石工ではなく、遠方に住む湯浅の石工が不老橋を手掛けたのかを知りたくて、湯浅町を訪れました。
平たく言えば、採算が合わない上、元藩主の命ということで失敗ができないことから、皆がなかなか手を挙げられなかった中、忠兵衛が手を挙げたのだろうというのが答えでしたが、
忠兵衛のことをよく知っていたという方は、40年以上も前に亡くなっていました。
放送に際し、インタビューを受けてくださった忠兵衛の孫の孫にあたる方に巡りあえるまで、実は、間に3人の方が入り、協力してくださいました。
にこやかな笑顔と共に現れたその人を見て、
忠兵衛もこんな人だったのだろうと、勝手に想像してしまいましたが、
歴史のある町で、多くの方々のご協力あっての取材はとても楽しく、勉強になりました。
来年もこんな取材ができますように…と、もう年末のような調子ですが、残り少なくなった今年も、もうひと頑張りです。
何を書いてよいのかわからず、久し振りの更新となりましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。